単なる感情論のいさかい解決に著作権法を使うな、と言いたい

>日本人は「ゆがんだ著作権意識」で洗脳されている
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000185.html


ってありますが、え〜と、それってちょっとこじつけっていうか飛躍っていうかそういう気がしないでもありません、っていうか、そういう気がします。


そもそもこの問題、にっくき森の実演を止めるための手段として「著作権があった」というだけで、「著作権問題」と捉える向きが一般にどれだけあるのでしょうかということです。


ワイドショーは言わずもがなで、何か「師弟対決!」みたいな感じでゴシップに盛り上げてるし、事の経緯と様子を眺めていると、「筋を通さなかった」という日本特有(?)の儀礼上の問題で、無礼で不遜な森とそれに対して感情的に憤怒する耳毛先生という構図しか見えて来ないわけで、著作権問題として語るのはどうかなぁ、とわたしは思ってたわけです。


2chの中の人々もみんながみんなそこら辺を履き違えてるわけでなく、こんな応答がされてたりするわけです。

82 名前: 一株株主(呉市) 投稿日:2007/03/05(月) 06:56:38
■森進一事件まとめ


・森進一が『勝手』に歌詞を変えて歌った
・アメリカで療養中でこの事をまったく知らされなかった川内氏が再三手紙で注意
・森はこの手紙を完全に無視 ・川内氏が激怒
・川内氏が森に説明を求める機会を作り森と対談を図る
・森、体調不良を理由に予定していた話し合いをボイコット
・川内氏は激怒し電話で森に連絡を取るも応対したのはスタッフ
・記者会見で森は「川内さんは全然違うことで怒っている」と嘘コメント
・川内氏「森君は大ウソつきだ!二度と歌わせん!」と激怒


★要するに改変されたことより、森のウソつき体質に怒っているのが真相


補足
実は川内は既に10年前に森に抗議している。
森はもう歌わないと約束。
なのに紅白で歌っていた。
おまけに「紅白で歌ってもらえて川内も喜んでいるはず」と発言。
川内が真意をただすために手紙を書いた。
以上が冒頭に加わる。


125 名前: 名人(3歳) 投稿日:2007/03/05(月) 07:07:35
>>82を見たら森がダメじゃん


158 名前: 舞妓(京都府)[] 投稿日:2007/03/05(月) 07:24:57
>>82
森最低だなw


引用元:http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/933021.html
*赤字部分は筆者によります。


この書き込みを見て、「なんだ、ちゃねらーも案外冷静だね」と感心してしまったくらいです。


森擁護派が2chにもあまり見られないのは、一連の経緯を見て「どう見ても儀礼的に森に非があります。本当にありがとうごz(略)」というコンセンサスからで、「日本の歪んだ著作権意識」からなんかではないんだと思います。


第一、「同一性保持権侵害」なんてマニアックな権利を一般ピーポーがどこまで知っているというのか、なんて、「著作権は著作財産権と著作者人格権の大きく2つに分かれます」はおろか、「著作権っていうのはね、権利の束なんだよ」といったところでハァ?U゚Д゚U、っていう反応しか返って来なさそうなところからも推して知るべしな感じです。


しかも、耳毛先生は「同一性保持権」なんてこれっぽちも主張しておらず、JASRACに管理委託している「著作権」に基づいて止めにかかっているわけで、ここで「同一性保持権」を慌てて持ち出す理由はないのです。


小倉先生なんかは知財を専門とするお立場でいるわけで、今回ついに著作権法に訴え出た耳毛先生の大胆な挙動を見るに及んで、ではその見地から法的な解決を試みた場合どのような手段がありうるだろうかを論じ、「冒頭に語りを加えるくらいで同一性保持権じゃムリじゃね?」とか「著作権で攻めても対応する権利ないからやっぱ無理じゃね?」とか「JASRACの許諾方式から考えても森一人に歌わせないってのは到底ムリじゃね?」とかって模索しているだけで、事の本質は全然著作権法的ではなく、メディアから何からそうは捉えてないと思うのです。


「同一性保持権」の「意に沿わぬ改変」っていうのがやりすぎじゃね?というのは同意できるし、学者連中の中にももうずいぶん前からそう主張してる人がいます(田村センセとか確か反対派。専修の斉藤センセはどうだったろう?)


なぜ「同一性保持権」なんていう権利がそもそも世の中に存在するかって、例えば「ロダンの『考える人』って彫刻があるけど、仮に誰かがその彫刻の深刻に考える顔をニカって笑っている顔に掘り変えてしまったら、後世の人々は『考える人なのにどうしてこんなやらしい笑みを漏らしてるんだ?ロダンっていう人はおかしい人なんじゃないのか?』と思うわけで、そういう意味で著作者の人格に関わるから著作者人格権としてこういう権利があるんだ」という論調で説明されるわけで、諸外国が「著作者の名誉声望を害する態様での改変に限って」これを認めているのは妥当にもかかわらず、一方で日本は何で「意に沿わぬ」だなんて強力なんだ?っていうわけです。


けどねぇ、

そして、実際問題「オリジナルは基本的に絶対で不可侵」だという感覚は、日本人の中に無意識のうちに定着していないか。裏を返せば、著作物改変という行為そのものに必要以上の罪悪感を感じてしまう意識。
もちろんその感覚は法遵守という意味では真っ当なのだが、そこに疑問を持てないほど定着してしまっているところが「洗脳」と表現した所以だ。


その感覚は、一見「クリエイティブ」を保護している様でいて、現実には、改変やパロディに内在する「クリエイティブ」を不当に軽んじてしまう事になっている。日本の著作権法がなぜこのような形になったのか、その経緯は知らないが、そこには誰かの意志があり、何らかの力学が働いている。
日本には、著作権者や権利団体が他国に比べて強硬に振舞える土壌がちゃんと培われていたのだ。


っていうのを見ても、現実の感覚と照らし合わせるとどうなのかなぁ?


混沌たるネットの世界を見れば、MADだの何だのって溢れ返り、YouTubeやニコニコ動画なんかじゃそれでみんな盛り上がってるわけだし、色んな作家のエッセイなんか見てると「最近の若い編集者を見てるとなっとらん!文中の『歳』を『才』に変えたり、『てにをは』を勝手に変えやがる。作家はそれら一文字でも深い考えがあって紡ぐのにそれを自分の感性で勝手に変えるとは何事だ!」というような苦言を呈す人が必ずいるわけだし、実際の「同一性保持権侵害」の判例を見ても、「大学側が学生の論文の読点の位置を勝手に変えた」とかそういう事例が見られたりするわけで、どこが「絶対不可侵」なのかなぁ、と。


日本が「パロディ後進国」っていうのも、そういう議論は前からあるけど、もっぱら「フェアユース」の法理を中心に議論されてる話だから、ちょっと理論が性急な気がする。


断片的には主張したいことはわからなくないけど、全体として見るとちょっと性急かなぁ、と思った次第。


一連の耳毛VS森の歌詞騒動に話を戻すと、儀礼上の感情的ないさかいなのだから、そんなんの便宜のために法を持ち込むなよ、と思っているのがわたしの考えなのでした。
事の本質も当事者もその周りももっぱら「感情論」でしかなく、大真面目に著作権持ち出したり、日本の同一性保持権が・・・だとか論じたり、パロディのクリエイティビティが何とかとかそんな高尚なお話を引き出すような事件ではないんでない?


まぁ、ここまで書いといて何だけど、わたしももう数年前に学部で学んだ知識しかないわけで、チミチミ、それはcちょっと違うよ、というようなところがあれば色々ご意見・ご指摘いただけると助かりマッスルする、でマッする。