著作権の夜明け② ―プラーゲ旋風 著作権の黒船


某所で戯れに書いたものです。昨日の続き。
プラーゲはまだ出てこないがなー。


続きからどうぞ。


「噂の黒船さん」、プラーゲ・ウィルヘルムの登場は昭和6年。

だが、その登場の経緯には前回の不平等条約締結まで時代を遡らなければならない。


欧米列強と結んだ不平等条約に苦しんだ日本。
日本はどうにかしてこの不平等条約を解消したかった。
不平等条約を撤廃するにはどうしたらよいだろう?
日本のえらい人達がたくさん寄り集まって出した答えはこうだった。


「ニホンもブンメイテキなキンダイコッカだとおーべーさ認めてくれたら解消できるんでなかべか?」

と言ったか言わなかったかは定かではないが、かくして日本は「ブンメイテキ」な「キンダイコッカ」となるべく生活様式も国の制度も抜本的に大変革していくのであった。


外国の色々な文化を取り入れ、自国の旧来の武家文化の多くを改めていく最中、日本は何度も人を外国に送っては不平等条約撤廃の交渉につかせた。


しかし、一向に欧米列強はその交渉に取り合ってくれない。


ちょんまげも切ったし、刀をさすのも止めたし、全国民に遍く苗字もついた。
食事には牛の肉を食うようになったし、教育制度も確立したし、藩を廃して県にもした。
その他、おーべーが「ブンメイ的なキンダイ国家」と認めてくれそうなことはたくさんした。


なのに、なんでおーべーさニホンをキンダイ国家と認めてくれなかべか?


だんだんと行き詰まってきた日本は、おーべーに近代国家と認めてもらうために、さながらお金と時間は持て余しており、ゴルフとか山登りでも始めてみようかと考えている中年サラリーマンの発想そのもののような行動に出た。


鹿鳴館」の建設。


ついこの前までちょんまげ頭の紋付袴姿であった日本人は、ここを国際的な社交の場とし、外国人を招いてはオーベーちっくに優雅な音楽を奏でてダンスィングなどし始めてみた。

それを以って欧米に日本も近代国家の一員であると誇示しようとしてみたのだった。


つまり、「いやぁ、形から入ってみましたよ、あっはっは」なのだった。


サルマネ日本人の走りであるこの社交ごっこは当然欧米から罵倒の嵐だった。


当時欧米列強が近代国家と認めるものはそんな形だけのものではなかった。


国のとびっきりおえらい誰か一人が絶対権力を持ってまつりごちたもうのではなく、国民が「私権」という名の権利を持って国の運営を主体的に行って行く「民主国家」と、国の政も市民の生活も全て「民主主義」に基づいた「法律」というルールによって営まれる「法治国家」こそが近代国家だとみなしていたのである。


支配国からの独立や絶対王政からの開放をまぢ本気願って、諸国の哲学やら思想に傾倒して運動やら革命やらを起こして絶対権力者から市民権を勝ち取った欧米諸国と違って、せいぜい飢饉とか不作とかで食い扶持がなくなって切羽詰った土百姓が竹やり持って年貢の軽減を求める一揆とかいう暴動ぐらいしかなかった日本では、この辺のことは全く未成熟であった。


また、仮に日本が不平等条約に定められた治外法権から脱却できたとして、じゃあ日本国内で犯罪を犯した外国人を何によって裁くのか?という問題もあった。


日本にはそんな制度も法律も未発達だったのだ。


まさか、ご隠居の付き人が葵の家紋の印籠出したり、遊び人の金さんが桜吹雪の刺青を見せたりしただけで犯罪を犯した外国人がははぁーとかしこまって一件落着となるわけもなかった。


諸外国を見て回ってそのことに気付いた日本は、憲法をドイツから学び大日本国帝国憲法を制定し、民法・刑法をドイツ・フランスから輸入し、独仏折衷して日本の民法典・刑法典を制定し、法治国家の道を歩むのだった。


こうして基本的な法制度を確立した日本に、一部の欧州列強は不平等条約の撤廃を容認しようとした。
最後のある条件と引き換えに―。

最後のある条件、それは、、、、


―「ベルヌ条約」の調印、ベルヌ同盟への加盟。


欧州列強が日本に迫った条件とはそれだった。


って、ベルヌ条約、ベルヌ同盟って何なのサ?


その③に続く