任天堂とソニーから学ぶビジネス講座②―岩田聡という人物


※この前にもう1コエントリがありましたが、長いんで16日にもって行きました。


シリーズ②です。今回は岩田聡社長の来歴に焦点を当てました。


任天堂ソニーと対比させながら今の彼らのビジネスについてまとめてみよう」と思ったのは、私の大好きなBlog『FIFTH EDITION』さんの↓2つのエントリに触発されてもありますが、彼のような豊富なデータや見事な切り口で書き表す技能は私にはありませんw


据置ゲームがこの世の地獄から生還するためにせねばならない事
SCEと任天堂の「いつか来た道」


基本的には↓の内容を基にプロジェクトX風味を意識して再編集しただけな内容なので、すでに色々ご覧になっている方には目新さはありません。
彼の来歴をなるべく客観的に書こうとしているので自分自身の考察などもありません。
(※「客観的に」などと言いつつ後日改めて見てみると思いっきり任天堂寄りの主観入ってるがな、な罠w)


【参考にさせていただいた主なサイト】
Wikipedia
 ・岩田聡
 ・山内溥
 ・HAL研究所
ほぼ日刊イトイ新聞
 ・社長に学べ!第二弾
ジーパラドットコム
 ・ハードメーカーのあせり「Only on」戦略
▼4Gamer.net
 ・[GDC#18]日本人開発者も大幅に増えた,GDC 2005総括


では、どうぞ↓

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「(名刺を掲げながら)私の名刺には会社社長という肩書きが書いてありますが
(こめかみに指を当てて)頭の中では開発者だと思っています。
(胸に手を当てて)でも心の中ではゲーマーでしかありません」。

2005年、毎年米国で開催される「Game Developers Conference(ゲーム開発者会議)」における任天堂基調講演「Heart of a Gamer」の冒頭、彼は自身を指してそう発言した。



決して流暢とは言えないたどたどしい英語によるスピーチであったが、「私がこれから話すことを一開発者、一ゲーム愛好者の話しとして聴いて欲しい」という表明から始まるその講演は、会場に集まった世界中のゲーム開発者たちの胸を打ち、その年のこの会合で一番の盛り上がりを見せた。


任天堂代表取締役社長 岩田聡―冒頭の発言はその一言で彼という人間をよく表している。


岩田聡は1959年、北海道は札幌市に生まれる。


高校時代の折、初めて触れた電子計算機(ヒューレッドパッカード社製のプログラミングのできる電卓。アポロ計画の宇宙飛行士が持参し、アンテナの角度の計算に使ったものだという)に魅せられ、当時としては高額であったその電卓を手中に収めると寝食を忘れてのめり込んだ。


当時ようやく「マイコン」という言葉が見え出した頃でまだ「パソコン」の「パ」の字もない時代、当然インターネットもパソコン雑誌もない時代に、その電卓によるプログラミングなど誰も知らない、教えてくれない中で、彼は独り夢中になってその電卓で次々とゲームを作った。


作ったゲームは授業中に隣の席の友人と一緒に面白がって遊んだ。友人は彼の作るゲームを触ってはよろこんだ。
友人のよろこぶ顔に彼はよろこび、また次々とゲームを製作した。
その友人は彼のゲームユーザー第一号となった。


また、彼はそのうちのいくつかを日本HP社の代理店に送りつけたことがあったが、受け取った当のHP社日本代理店は「札幌にとんでもない高校生がいる」とたいそう驚き、山のような資料をこの一介の高校生に送ってよこしたという。


そのとき1976年、岩田がまだ高校2年のときである。


その約2年後、「アップルコンピュータ」を始めとした「パソコン」が登場し、決して安価とは言えないその魔法の箱を彼もいち早く手に入れていた。


東工大に進学し、上京していた彼の傍らには高校時代に彼の作品をよろこんで触ってくれた「お客様第一号」はいなかった。
彼の足は自然、池袋西武百貨店のパソコンコーナーに向かっていた。
そこには同好の士たちが集っていた。
パソコン、プログラミング好きが邂逅し、彼は自身の作品を披露する場をそこで得ることができた。


ある日のことだった。


彼はそのパソコンコーナーでバイト勤務していた店員に声をかけられた。
彼の立ち上げようとしている会社でプログラマにならないかと。


その日から彼は秋葉原のマンションの一室で、バイトとしてプログラミングをするようになった。
楽しくてしょうがなかった。彼は無我夢中になってバイトにのめりこみ、いつしかその会社に居座るようになっていた。


その会社の名はHAL研究所―後に彼が経営者として手腕を振るい、どん底の経営状態から見事再建を果たすその会社である。


彼は大学を卒業するとそのままHAL研に入社した。
当時の社員は5名。
プログラマもほとんど彼一人のような状況であり、彼は入社してすぐ新入社員でありながら自分一人であらゆることを判断して立ち回らなければならない立場となった。


当初はバイト時代から続けていたPCゲームのプログラミングをしていた彼だが、大学卒業後一年してその後のゲーム史を決定付けるある名機と運命的な出会いを果たす。


任天堂が世界に送り出し、爆発的普及をすることになる家庭用ゲーム機ファミリーコンピューターである。


彼は思った。
「こんなものが一万五千円か。これは世の中が変わるような気がする。どうしてもこれに関わりたい」


そう思った彼の行動は早かった。
当時、たまたまHAL研に出資していた会社に任天堂と取引のある会社があることを知ると「どうしてもファミコンの仕事をしたいから」と紹介を願い出るやいなや、任天堂京都本社に赴き、ゲーム開発の受託を請願した。


任天堂は「ピンボール」や「ゴルフ」、「バルーンファイト」といったファミコン黎明期の初期ソフト群のプログラムをハル研に依頼した。
このときから彼と任天堂とのつきあいが始まった。
その中には「企画はあるが誰も作れなくて困っていた」ゲームソフトもいくつかあった。それらの開発を請け負い、難なくこなす彼に次第と任天堂の信頼も高くなっていった。
岩田聡の名は任天堂社内でも知れ渡るようになった。


彼はとにかく楽しくてしょうがなかった。
受託開発という儲けにならない仕事であったが、自分の作ったものが世界中に瞬く勢いで売れてゆく手応えに打ち震えた。
今や高校時代に隣の席にいた「お客様第一号」は世界中に広がっていた。


1990年になると、秋葉原にあったオフィスは山梨の山中に移り、5名から始まった社員数も90名近くにまで膨れ上がっていた。
そして彼は取締役開発部長として開発の総責任者となっていた。


しかし、その2年後の1992年、事態は急転する。
ゲームソフトの売上げ不振と山梨県での不動産投資の失敗により、HAL研究所は多額の負債を抱え、和議を申請した。
事実上の倒産となったのである。


倒産したHAL研に再建支援を名乗り出たのは任天堂だった。任天堂前社長山内溥はそのときある一つの条件を提示したという。


その条件とは岩田聡を社長にすること」


かくして、バイトから取締役開発部長となった彼はこのとき、倒産したHAL研の再建を担う社長となったのである。
岩田聡、若干32歳のときの出来事である。


逃げようか、そう思わなかったこともない。
何しろ負債は何十億円に上り、そのうちの15億円を6年間で返済するよう求められていた。
会社が建物を担保に借りた借金は、もし会社が立ちゆかなくなったら、彼自身が個人補填をしなければいけない状況にもなっていた。
自分一人が突然そのような大きいリスクを背負い込まなくてもいいじゃないか。


しかし、彼にはそれができなかった。


「もし逃げたら自分は一生後悔する、一緒に汗をかいた仲間がいるのに、どうして逃げられるか」


彼は決断した。HAL研究所の経営を再建することを。


そのために彼がまずしたことは「選択と集中」である。


HAL研はソフト開発事業とハード開発事業の2つの主要事業を有していたが、彼は「ゲームソフト開発」の一本に絞って経営の建て直しを図る。
HAL研という会社の強みを考えたときに、ソフト開発以外の選択肢は考えられなかったし、当時の家庭用ゲーム業界は、スーパーファミコンを中心とする絶頂期を迎えており、丁寧に作り込みさえすれば収益が見越しやすかったからである。


さぁ、では具体的にこれからどうしようか。


思案した彼は「一月間ひたすら人と話す」ことに決めた。
社員全員との面談を始めたのである。


意思決定の最終判断を下す立場となった彼にしてみれば、自分達の組織が「なにに強くてなにに弱いのか」を知る必要があった。
経営の方向性を決める判断の尺度を作らなければならなかった。


それに彼は社員を理解しない会社にしたくなかった。社員の幸せを考えない会社にしたくなかった。
人は全員違うし、そしてどんどん変わる。
そうであれば、人は変わっていくんだということを理解するリーダーたろうと彼は考えた。


幸い、倒産し、峠を通り越したハル研には時間はたくさんあった。
6年で負債完済、という期限はあったが、何かのソフトをいつまでにリリースしなければならないという期限はそのときなかった。


多いときには88人から90人くらいの社員と、短いときで20分、長いときで3時間も時間をかけて一人一人の社員の話に耳を傾け、また自分の考えを明らかにした。


「どうして会社がこうなったと思う?」「なにがいけないことだと思う?」「なにがうちのいいところだと思う?」「なにに不満があった?」・・・
彼はこれからの判断材料集めのために無我夢中になって社員にそう尋ね、質問攻めにした。


面談を通してわかったことは多く、そして大きかった。
彼は人それぞれ考え方も向いている方向も違うのだということと「人は逆さにして振らないとこんなにもモノをいえないのか」ということを改めて痛感した。
これからの経営の方向性も徐々に形を成して目に見えるようになってきた。


それだけではない、面談を通して心を開いて話し合ううちに、社員相互の信頼感が高まっていくことが手に取るようにわかった。


多くの発見をもたらしたこの面談は大変意義のあるものとなった。
彼は彼の組織においてこの面談が何よりも優先度の高いものであることに気づき、その後も半年に一回という間隔で面談を継続することにした。
人は変わるし環境は変わるのだから、一度で面談を終える理由はなかった。


社員も経営者がこの面談にひとかたならぬ重要性を置き、ほんの気まぐれで始めたことではないことを見て取ると、危機的状況から脱却するために自分たちの話に耳を傾ける新たな経営者の姿にますます信頼を寄せるようになった。


HAL研は経営再建に向けて「今後発売するソフトは全てミリオンセラーを目指す!」という信念を胸に、ソフト開発に取り掛かった。


様々なセクション、チームがある中で、彼はそのときそのときで一番多忙を極めている場所に応援しに行った。
当時の組織においては、どんな課題があってそれをどう分析してどう解決するか、という能力に自分が長けているという自負が彼にはあった。
もっとも大変なところに自分が赴くのが、会社の生産性にとってもっとも合理的であると彼は意識的にも無意識的にも思っていた。


開発現場にやってきては次々と問題解決していくリーダーの姿を目の当たりにした社員たちは、次第と「この人が決めるのなら間違いはない!それについていこう!」という気になった。
彼は自身を常に一番忙しい環境に置くことで次々とプロジェクトを回し、リーダーシップを勝ち得ることに成功した。


そうしながらも彼は内心「もし自分よりも社長として適性のある人がいるのならいつでも変わりたい」と思っていた。


弱音を吐いていたのではない。
自分の得意なことはものを作ること。
ものを作っていさえいればそれでいいということであればそれはそれで彼にとっては幸せだった。


プログラミングを愛する「開発者としての彼」は会社の経営をする傍らで「プログラマ」という二足の草鞋をその足に履かせた。
週末の土日も出勤し、彼は自身もそのときに大好きなプログラムを書いた。


そのようにして、彼がHAL研の社長に就任して初めてのソフト『ティンクルポポ』が出来上がった。


しかし、当時すでに2万6千本の発注を受けていたこのソフトがそのままの姿で日の目を見ることはなかった。
任天堂宮本茂がストップをかけたのだ。


宮元はこのソフトを「ちょっといじれば大化けする」と見抜いていた。
果たして宮元はティンクルポポの発売を中止させ、作り直すようHAL研に要請した。


HAL研社内では大激論が巻き起こった。
すでに広告も打ち、受注も取っている。しかも、2万6千本という決して少なくない数だ。
少しでも早く、少しでも多くソフトを売り、収益を上げねばならない膨大な借金を抱えた企業が、いきなりこのような取引先の信頼を損なう暴挙に出ることなど論外だった。
営業の体面も台無しにしてしまう。


岩田はものの名前や売り方に関して全く無神経だったことを自ら認めた。
そして、『ティンクルポポ』の発売中止を意思決定した・・・。


その後、『ティンクルポポ』は星のカービィー』として生まれ変わった。
当初のままであれば2万6千本の発注であった『星のカービィー』は最終的に全世界で500万本を超えるセールスを弾き出し、以降シリーズ化されて累計2000万本以上を売り上げるモンスタータイトルになった。


宮元の真贋は正しかったばかりか、「今後発売するソフトは全てミリオンセラーを目指す!」という信念はソフトリリースの一発目から見事果たされることになった。


勢いを得たHAL研はその後も任天堂のセカンドパーティーとして次々とヒット作を世に送り出した。


星のカービィー』に引き続いてディレクターを桜井政博が務めた大乱闘スマッシュブラザーズ「今のプログラムをいかすと3年かかります。一から作り直すと半年で出来ます」と岩田が英断し、ほぼゼロから作り直し、半年で完成に漕ぎ着けたMother2 ギーグの逆襲などキラータイトルが生まれていった。


岩田は経営を続け、開発を続け、社員との面談を続けた。
その過程でHAL研の経営理念が形作られていった。


「商品作りを通して、作り手であるわれわれと遊び手であるお客さんを、共にハッピーにするのがHAL研の目的だと決めよう」


高校時代、隣の席にいた友人をよろこばせて以来、「まわりの人がよろこぶ」「まわりの人がしあわせそうな顔をする」ということを価値観の上位に置いた彼らしい決定だった。


かくして、岩田聡体制となったHAL研は息を吹き返した。
15億に上る負債を期限内に完済し、見事再建を果たした。


華麗な経営手腕を振るい、ユーザーの幸せとHAL研の幸せとを体現した岩田の先に待っていたのは任天堂入社」だった。


2000年、長年来続いた任天堂とのつきあいは、ここに来てついには彼を取締役経営企画室長に迎えることとなった。


もちろん、その糸を引いたのはHAL研倒産時に彼を社長に指名した山内溥その人だった。


事態はまた急転を見せる。


2年後の2002年のある日、岩田を自室に呼び出し、一対一で対峙した山内は岩田に対し自身の経営哲学を語り出した。
山内の話は3時間も続いた。


1949年来、53年もの間、任天堂のトップを就任し続けた山内がついにその座を譲り渡したのである。


創設以来、典型的な同属企業であった任天堂が、山内の息子他親類縁者を差し置き、ファミコン以来苦楽を共にした数多くの優秀な古参の社員を差し置き、社外から招き入れて間もない岩田にその座を譲ったのだ。


ここに、弱冠43歳の指導者が率いる任天堂岩田聡新体制」が誕生した。


運命は巡り巡った。
HP社の電卓を手にした瞬間からプログラム好きでその名手となった一介の高校生は、その愛好心から立ち上げたばかりの零細企業のプログラマのバイトとなり、そのまま社員となり、開発総責任者となり、超負債企業の社長となり、それを再建させた後は任天堂の取締役となり、そしてとうとう世界的ゲーム企業にして世界最大級のソフト開発メーカー任天堂の社長に上り詰めた


舞台は一気に広がり、大きくなった。


しかし、岩田の就任した任天堂は決して順風満帆な環境とは言えなかった。


ヒット作を量産し続け、一度たりとも赤字を出したことはないとは言え、かつての王者任天堂スーファミ以降、自身の驕った所業とSCEのプレイステーション登場により、サードパーティーは離れ、小売の信頼を失い、ユーザーの人気を失くし、ハード機市場シェアNo1の座から転落し続け、マイクロソフト社のXBOXが発売されて以降は世界最下位にまで陥落した。


HAL研の再建を果たした彼は、今度は任天堂の首位奪回という新たな、そして壮大な再建の命題を担うこととなった。


当時、任天堂は高性能機『ゲームキューブ』で首位返り咲きを狙ったが、まったくうまくいかなかった。


任天堂は再び王者に躍り出るための武器を欠いた。市場を覆す弾がなかった。


2003年、ロサンゼルスはコンベンションセンターで行われたE3。


お祭り騒ぎのように色めきたつマイクロソフトXBOXの講演、その当時の王者の風格と余裕を見せ付けるSCEの講演の一方で、任天堂の講演は白けたムードで聴衆に迎えられた。


会が終りに近づき、質疑応答が始まると、聴衆は一斉に席を立ち、会場を後にし始めた。
閑散とした会場で社長岩田は最後にこう叫んだ。


任天堂は必ず勝ちます!」





それから3年後の2006年現在、2004年にリリースした携帯ゲーム機nintendoDSは、王者SCEのPSPによる携帯ゲーム機市場参入をものともせず、「脳トレ」といった社会現象を巻き起こし、トリプルミリオンタイトルを連発し、ゲーム史上最速で全世界累計1000万台出荷を達成した。毎月20万台を売り続けるDSはそれでもなお、熱狂する需要に追いつかず品薄が続いている。


満を持して発売された次世代機WiiはPS3の出遅れを尻目に、早くも世界で100万台の売り上げを超え、DSと同じく売り上げ好評による品薄を続けている。


そして、ハードの命運を分けるキラータイトルの一つ、国民的RPG「ドラゴンクエスト」がついにDSからリリースされることが発表され、サードパーティーによる超モンスタータイトルをSCEのPS陣営から奪還することに成功した。


岩田は任天堂王国再建に向けて舵を切り続ける。
人々のよろこぶ笑顔を思い浮かべて。そして、3年前のE3で宣言した任天堂の必勝を自らが信じ、胸に抱いて。


続く・・・